毒婦は男を破滅させるが、真夜中に歓喜の悲鳴を上げる

ルイ・マル監督の『ダメージ』という映画では、ジェレミー・アイアンズ演じる政府高官が、息子のフィアンセとなった女の怪しいまなざしに魅入られ、その女と自滅的な恋に陥る。

そして息子を死に追いやった挙句、府高官の地位、周囲の尊敬と信頼を失って、浮浪者同然の身に 堕落するというコワいお話である。

日本人の感覚だと、この外交官は、いかにも愚かで、抑制のない男に映る。

また、政府高官の地位があるのだから、なにも息子のフィアンセに手をださなくたって、もっとイイ女を金で囲えるだろうとも思う。

しかし、ルイ・マル監督は、この政府高官をワキの甘い無防えが備な男としては描かなかった。

フランス人のルイ・マルにとって、彼は、許されぬ恋のためにみずから運命の死を選んだ男なのだ。

そこに、「ファム・ファタール(毒婦)」の言葉を生み出したフランス人の、日本人とは大きくへだたった感性がある。

そもそも、地位と財産があるならば、イイ女は金で囲えばいいと考える男には、「ファム・ファタール」の真の意味は理解できない。

「ファム・ファタール」は、あくまでも、恋によって男を自滅させる女を意味している。

ところが、日本では、ある程度の地位・名誉・財産をもつ男あやが、それらを危うくするような自滅的な恋に走ることは、めったにない。

失礼な話だが、古来、日本の権力者にとって、女は、金の力で手に入れる存在であった。

その底流には、もちろん、日本古来の男尊女卑の精神が流れている。

そうした精神を受けついだ日本男児にとって、自分の地位・財産・名誉・将来と引きかえてもいいほどの情熱的な恋は、なかなかできないのである。


よって、日本の女は、いかにマノン・レスコーやカルメンのような悪女を演じようとも、日本の男たちを「致命的な」恋に走らせるのは、まず不可能だろう。

たとえば、あなたが、ある政治家を誘惑して、彼をメロメロにしたとしよう。

彼は、あなたの肉体に執着し、高額のお小づか遣いをくれたりするにちがいない。

しかし、「愛人」に会っていくという感覚でいる彼は、あなたへの恋に狂ったりはしない。

そんな彼に〝致命傷〟を与えるには、あなたがみずから愛人であることを名乗りでて、愛人問題で今の地位から失脚させてやるしかない。

しかし、あらためて念を押しておくが、「ファム・ファタール」とは、恋によって男を自滅させる女のことだ。

愛人問題で男を破滅させたとしても、それは、その男にとって、「致命的な」失敗ではあっても、「致命的な」恋ではない。

だから、その場合でも、あなたは、本当の「ファム・ファタール」とはいえないのである。

とはいえ、日本の男たちも、心の奥底では、そういうファム・ファタールの出現を望んでいるのかもしれないが。

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