なぜ何度も裏切る峰不二子は許されるのか?美貌と裏切りの心理学

小説『マノン・レスコー』のヒ娼婦マノンは、永遠の「ファム・ファタール」とされている。

「ファム・ファタール」とは、「魔性の女」と訳されることが多い。

マノンは、娼婦の身分を隠して、名家の青年デ・グリューを誘惑する。

たった一度の、通りすがりのとりこ出会いで、デ・グリューを虜にしてしまう。

「わたしは、両親に修道院に送られようとしている不幸な女」ひというウソが、たちどころにデ・グリューを惹きつける。

この言葉によって、純真な青年は、その場で、彼女を「悲運」からき し救いだす騎士になりきってしまうのだ。

デ・グリューは、約束された財産も名誉も捨て、マノンとともにパリのアパルトマンに駆け落ちする。

ところが、あるきっかけで、マノンが一人の金持ちに囲われた娼婦だったということが発覚してしまう。

デ・グリューは、海千山千のプレイボーイではない。

世間も女も知らない、名家のボンボンだ。

彼は、マノンのウソと裏切りに、地獄の底に落ちたような苦しみを味わう。

が、ようやく苦しみから抜け出て名門の神学校に進み、約束されたエリート・コースを歩みはじめる。

そのデ・グリューの前に、あろうことか、ふたたびマノンが姿をあらわす。

ただの悪女ならば、裏切りが発覚した時点で、いちもくさんに姿をくらますところだ。

しかし、運命を狂わすファム・ファタールは、そんなことではターゲットの前から消え去らない。

誘惑は、どんな困難にもくめげず、何度でも繰り返されるのだ。

とはいえ、マノンの裏切りに言い訳の余地はないはずである。

デ・グリューは、当然のことながら、マノンの裏切りを責める。

それにたいし、マノンは、意外にも「弁解はいたしません」と素直に非を認めるから、たちが悪い。

じつは、この点に、ただの悪女がおよびもつかない、マノンばつのしたたかさがある。

この段階では、男は、重い罰を言い渡す鬼判事の心になっている。

それをかわすには、深い後悔の気持ちをみせるのが一番なのだ。

そして、マノンは、「それでも、あなたの心をとりもどせないならば、わたしは死んでしまいます」と、デ・グリューに泣きすがるのである。

相手は、またとない美貌の女性。

どんな裏切りがあろうと、そのことにかわりはない。

そうでなくとも、男というのは、基本だ的にケチで、自分が抱くことができるとわかっている女を、そう簡単には手放さないものである。

マノンは、そんな男心を見抜いていたのだ。

だが、それでも、デ・グリューのなかには、あるわだかまりが残っていた。

自分は、マノンを囲っていた男に負けたのではないかというわだかまりである。

そこで、デ・グリューは、「なぜ、そんな男に誘惑されたのか」と問い詰める。

すると、マノンは、はらはらと涙をこぼしながら、「たしかに、その人がくれた贅沢な生活は魅力でした。でも、その魅力は、あなたにある、こまやかな感情や気品のある物腰うったの魅力にはとうていおよびません」と訴える。

これで、デ・グリューのプライドは、おおいに満足させられてしまう。

この点が、肝心なところで、ほかの男には負けないというプライドも、男が女を獲得しようとする重要な動機のひとつなのだ。


つまり、マノンは、ほかの男をからめたトラブルによって、かえって、デ・グリューの心を強くからめとってしまったことになる。

これは、18世紀のフランスを舞台にした物語だが、この言い訳術は、21世紀の日本でも十分に通用するはず。

マノン・レスコータイプの悪女を目指してみるのも、面白いかもしれない。

そういえば、ルパン三世に登場する「峰不二子」。

彼女も典型的なマノン・レスコータイプの悪女と言えるだろう・・・・。

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