江戸の遊女に学ぶ男を簡単にオトす超絶テクニック

江戸時代、吉原の遊郭では花魁がそれぞれの性技に磨きをかけて互いに競いあっていた。

その中でも「野秋」と呼ばれる花魁は特に異彩を放っていた。

井原西鶴の好色一代男にも描かれているこの人物についてみていこう。

『好色一代男』の主人公・世之介は、彼女のことを、つぎのように絶賛している(『江戸の恋』田中優子・集英社新書より)。

肌がうるわしく温かく、その最中は鼻息高く、髪が乱れてもかまわないくらい夢中になるので、枕がいつのまにかはずれてしまうほどで、目は青みがかり、脇の下は汗ばみ、腰が畳を離れて宙に浮き、足の指はかがみ、それが、けっしてわざとらしくない。

さらに、たびたび声をあげながら、男が達しようとするところを、九度も押さえつけ、どんな精力強靱な男でも、乱れに乱れてしまうところだ。


そのうえ、その後で灯をともしてみる、その美しさ。


別れるときに、「さらばや」という、その落ち着いた優しい声。


いったいあの声はどこからでてくるのだろう …。

この世之介の賛辞を整理すると、「床上手な女」とは、以下のかような条件を兼ねそなえた女ということになるだろうか。

●肌が美しく、温かい。
●セックスに没頭しつつも、体は敏感に反応。その乱れぶりが男を喜ばせる、みごとなパフォーマンスになっている。
●男をできるだけイカせないようにすることで、いつのまにかセックスの主導権を握っている。
●事後が美しい。
●しつこくとりすがったりせず、さっぱりと「さようなら」がいえる。

いかがだろう。

「床上手」とは、セックスの技術に長けた女という意味だといったばかりだが、野秋のような女性をみると、けっしてそれだけではないことがおわかりのはずだ。

たしかに、野秋の技は、どこか計算づくのようにも思える。

しかし、彼女たちが仕事として、好きでも嫌いでもないフツーの男たちと一夜を共にしなければならなかった以上、いつもいつも夢中になれるはずもない。

それではプロではないのだ。

もちろん、だからといって、マグロのように床に寝ているだけでは、客は愛想を尽かす。

そこで、彼女たちは、みずからをじょじょに高め、〝半分マジ〟になった。

そして、ときにちょっとわざとらしいほど身悶えして男を喜ばせたのだ。

これは、したたかなプロ意識と、自分をコントロールする能力があってこその技、いや人間性までふくめた〝芸〟といっていい。

おそらく、世之介も、野秋の性技だけでなく、そうした〝芸〟に拍手をしていたのではないか。

惚れているかのようにみせて、さらりと「さらばや」といえる女。

いつの時代も、男は、そんな女の手練には喜んで翻弄されたいと思っているのである。

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