キムタクに似ている彼と藤原紀香に似ている彼女?

私の「彼はキムタクに似ている」、とか「俺の彼女は綾瀬はるか似だ」などど言うが、実際に会ってみると当人とは似ても似つかないという事態が良く起こる。

10年ほど前、イラストレーターの南伸坊氏は、独自に提唱した「顔学」のなかで、「ミッシング・リンクの理論」なるものを語っていた。

この理論によれば、たとえば、田原総一朗氏の顔と赤木圭一郎氏の顔のあいだに「失われた輪」(ミッシング・リンク)をはさみこむと、二人の顔がつながることになる。

その場合の「失われた輪」は、峰岸徹氏の顔だった。

つまり、峰岸徹氏という輪をはさむことによって、田原氏から赤木氏への自然なグラデーションが生まれ、一見、似ても似つかない顔が結びついてしまうという理論を展開した。

このように、自分の彼や彼女を芸能人似に仕立てる人々は、好きな相手と芸能人の顔のあいだに、この「失われた輪」をはさみこんでいることになる。

このリンクを何本も使えば、極端にいえば、どんなにマズい顔からでも、デカプリオやキムタク、紀香、アユへのワープが可能になるのだ。

その場合は、目の前にある彼、彼女の顔は、もはや究極の美化への〝素材〟にすぎない。

悲しいかな、「キムタク似」と思われている彼は、いつも彼女にみてもらえているようでいて、じつは、彼女が頭のなかで自動的に組みかえた「顔」を映しだされているだけなのだ。

マルセル・プルーストの長編小説、『失われた時を求めて』には、幻の恋に陥るスワンという貴族が登場する。

スワンの恋の対象は、オデットである。

だが、スワンが恋しているのは、オデットであってオデットではない。

というのは、スワンは、ルネッサンス画家ボッティチェリが描く聖女の肖像をオデットの上に投影してしまっていたからだ。

つまり、スワンは、オデットをみているようで、じつはオデットではなく、勝手に自分が投影した聖女の面影をみていたのである。

そんなスワンの心を知らない周囲の人々は、どちらかといえつつしば男性関係に慎みのないオデットに、スワンが恋こがれる理由がわからない。

自分の自由奔放を愛しているオデットも、聖女のつもりなどさらさらない。

だから、自分に執心するスワンを憎からず思うものの、一方では、どこか座りの悪い心地になっている。

ようするに、切れ長の目の彼を「デカプリオ似」、たんなるタヌキ顔の彼女を「ノリカ似」と思う人々は、すべて〝スワン症候群〟におちいっているのだ。


このように、彼女にイケメン似を強調されると、かえって、こちらの顔がそんなに不満なのかと一度、疑ってみたほうがいい。

実際、自分の彼や彼女の顔に空想を投影するのは、目の前の〝現実〟に満足していない証拠ともいえる。

「キムタク」に似ているといわれて、有頂天になっている場合ではないのだ。

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